もう職場で悩まない!空気を読むのがいいのか、読まないのがいいのか?

社会人になると結構な割合で「空気読んで!」と思われる場面に遭遇します。

そして空気読める人ができる人、読めない人がダメな人と判断されがちです。

ですがホントにそうなのでしょうか?

今回はこの点についてフォーカスします。

ごまお

空気を読むってどういうこと?

もう職場で悩まない!空気を読むのがいいのか、読まないのがいいのか?

結論

読まなくていいです。

空気を読む

「空気を読め」が指すところ

そもそも空気を読むということの定義が難しいです。

というかそんなものありません。

これは世間一般が思う常識であったり、その職場特有の風土というか空気感でなんとでも変わるものです。

要はその時のその状況下での大多数が思う暗黙の了解ってことです。

そこに明確な基準が存在するはずもなく判断する人がいるわけでもありません。

だから本来はお互いを尊重し合うために用いるものであって「何もいらんことは言うな」「余計なことはするな」という意味ではないのです。

ですが私たちが使っている「空気を読め」という場合のほとんどは余計なことは言わないこと、しないことと解釈されています。

つまり自分を主張するな、押し通すなという同調圧力として使われているのです。

きちんと認識しておかないといけないのは空気を読むことと周りに合わせることはまったく別物です。

空気を読んで周りに合わせるために空気を読む必要があるわけではありません。

なぜ空気を読む必要があるのかと言うと周りを動かすために空気を読むためです。

空気を読むということはしたとしてもその結果その場の暗黙の了解を理解して、周りに合わせていたのではそれは流れされているだけに過ぎません。

本当で空気を読むということをするのであれば、すべきことは周りに合わせることではなく、どうすれば自分の思う方向に持って行くことができるかを考えることです。

空気を読んで右にならえでは別に空気を読む意味もないわけです。

ですので周りを動かすためであれば空気を読むことはしてもいいかとは思います。

空気を読むことは必要?

ですがそもそも空気を読むことは必要なのでしょうか?

私は必要ないと思います。

これは上記で述べた周りを動かすため以外の場合であればということです。

結果的に同調圧力に従うことと同じ意味になる空気読みであるならばしない方がいいです。

そこには何の前進もないからです。

「上司が言うことだから」「会議の方向がもうそっちに向かっているから」ということでの空気読みはイコールただのイエスマンなだけです。

そこに自分がいる意味なんてありません。

つまり仕事をしていないと同義です。

もっと言うなら仕事をするつもりがないと同義です。

これは特に会議や委員会で顕著です。

そこにはなるべく摩擦を避けようとする多数しかいないのです。

そしてそんな会議や委員会が多い。

医療機関である以上必須のものはもちろん開催しないといけないのですが、なくてもいいんじゃね、と思えるものも数多く存在します。

そしてそれは内容の濃淡に関わらずきっちり1時間だったりするわけです。

病院の職員でありながらこういう発言はどうかと思われるかもしれませんが、会議や委員会のほとんどが生産性の低いものばかりです。

断っておきますがこれは当院の場合においてです。

特に発言者もいない、会議のゴールがどこかが分からないなんてものがいくつもあります。

ただ体裁を保つためだけに開催している。

それならやめてしまえばいいのです。

ですが病院お決まりの昔からの慣習に従って残り続けるのです。

そしてそこでは誰もが空気を読んで何も発言が出てこない。

それはみんなこんな会議は早く終わりたいと思っているからです。

だから何かの新たな論点をそこに放り込めば余計に長引くのが分かっている、その結果ただの報告書の読み上げに終始したり議長が延々と話すだけになってしまう。

ホントに早く終わらせたいなら、会議前にその場で決定したい議題について事前資料を読んだ上でおのおのの意見を持ってきてもらえばいいのです。

そして会議で自分の考えを主張してもらえばいいのです。

それの方がよっぽど早く終わります。

会議は物事を決める場であって話を聞く場ではないのです。

同調圧力だけの空気読みに終止している会議はホントにどうにかするべきです。

昔私は「こんな会議いる?」っていう会議を開催する必要がありますか?いらないのでは?と上司に言ったことがあるのですが、その時の答えがまさに「昔からあるものなのでなくせない」でした。

これが現実です。

私が言っているのはあくまで正論と自分が思っているだけの意見であって、組織の正論は会議は続ける、だったのでした。

ですがさすがに1時間は長いと思ったようで30分には短縮されていました。

しかしそれでも本質は一緒で空気を読んでのほぼ発言が得られないような会議はない方がいいとは思います。

空気を読むということのもう1つの例は残業にあります。

これも多くの人が経験していることだとは思いますが、周りが残っているから帰りにくいというやつです。

今は働き方改革もあり残業すること自体が減ってきているとは思いますが昔はかなり顕著でした。

自分のレセは終わっているのに帰れない、ということが私も新人時代にありました。

でもこれは空気を読んでいるのともちょっと違うような気がします。

今思えば完全なる同調圧力以外の何物でもなかったなと思います。

これはその職場の風土、空気感に左右されるので「いやいやそんなのもう帰っちゃえばいいんだよ」という正論もなかなか通りにくいのです。

「あの子だけ残っていないけどホントにできてるの?」

「もう帰れるってことは適当に流してんじゃない?」

「分担の量が少なすぎたか」

なんていらぬ憶測ばかりされることになります。

それこそ当時は22時とか23時までやっていた時代です。

19時に帰ったとしても「早すぎる」と思われる状況でした。

そうやってみんないらぬ空気読みをすることによって、帰る時間はほぼみんな一緒みたいなわけの分からない仕事のやり方でした。

そんな空気読みはホントにムダです。

「和を以って貴しとなす」を間違って理解している典型例なのです。

他人に求めない

相手の気持ちを理解した上で空気を読む。

それを自分で気づいて行うことは別に問題ありません。

したければすればいいと思います。

空気を読むことが大事、それが単に同調圧力に従うことになったとしても仕方がない、自分はそれが正しいと思っている。

その考えをムリにどうこうしようとする気はありません。

ただ、それを他人に求めることはすべきではありません。

つまり「当然空気は読むべきだ」という考えの強要です。

しかしこれは実際かなりの人がやっていると思います。

要するにはっきり言わない、強く言わない、でも空気は読んでよねってことです。

周りが言わないのに自分だけ言うことで悪者になるのはイヤだ、でも自分の意志は通したい。

そんな時、人がとる行動はぼんやりとあいまいに伝えるということです。

そしてあとは相手まかせ。

それで相手が上手く空気を読めなかったらそれは相手が悪い。

自分の伝え方に問題があったなんてみじんも思わない。

なぜなら普通の人は空気は読めるものだからという論理。

気持ちをくみとれなかった相手が悪い、常識がない人との決めつけ。

きちんと伝えていないのに相手に自分の想いが100%伝わるなんてことがあるわけがない。

そんなことははた目から見ていれば分かることなのですが、やっている本人は絶対気づかないのです。

そしてそんな人ほど「なぜ私の言ったことが分かってもらえないの?」となるのです。

それは受け手のあなたが悪い、感度が低い、勘がにぶいと。

そもそもうわべの言葉だけ投げておいて後は深いところまで理解してね、なんてムリな話なのです。

なぜはっきり伝えないのか、自分の意志を表明しないのか?

それは自分が傷つきたくないから、楽でいたいからです。

遠まわしに伝えることって自分は楽だけど、相手にすごく負担をかけています。

そしてすべての責任を相手にかぶせるというえげつない行為なのです。

完全なる他責思考です。

自責思考 VS 他責思考、 仕事での正解はどっちだ?

「だったらはっきり言えばいいんですね」

「イヤです、嫌いですも言えばいいんですね」

と言う人もいるかもしれませんがそれは極端というか何も考えていない人です。

物事ってなんでも言い方というのがあります。

そこをなんで考慮していないんですかって話です。

空気を読むなイコールすべて本音で語り合えではないのです。

そんなことしたら対人関係なんてすぐに破綻します。

きちんとその中間を探れということです。

自分の主張はきちんとした上でお互いの妥協点を探る。

お互いが歩み寄るという関係。

シンプルにこれだけです。

相手がどう思っていようがそんなの自分には分からないことだし、分かる必要もないこと。

自分は自分、他人は他人。

つまりは課題の分離。

もっと簡単に考えれば空気の読み合いをしている職場でなんて働きたくないはずです。

そんなところにいても疲れるだけ、何にも楽しくないです。

冒頭に述べたように周りを動かすために空気を読むこと以外は空気を読むことはやめた方がいい、そう思うのです。

まとめ

空気なんか読まなくていい、そう思います。

空気を読んで本当にできる人になっている割合って1割もいないんじゃないかって思います。

その人たちは周りを動かすために空気を読んでいる人です。

周りを動かすことなんて考えていない、周りに合わせて無難な選択しかとれないのなら空気なんか読んじゃダメです。

それはイエスマンであることの選択であり、思考停止していることの証だからです。

和を重んじるばかりに考えることをやめてはダメです。

その時点で自分の成長は止まります。

最終的に周りに合わせることと、最初から合わせていることとはまったく違います。

協調と同調は違うのです

最初から自分の主張がない、あっても表明できないのであれば一体自分は何のためにそこにいるのか、ということです。

それはたとえ自分が一番下っ端だったとしてもです。

誤解してほしくないのはかたくなに自分の主張を押し通せと言っているのではないということです。

ただ自分を殺して働く意味は自分にとってもそこの医事課にとってもマイナスだと言っているのです。

自分を殺すのではなくきちんと意見を持ち表明する。

それが通ろうが通らまいが関係ありません。

そのプロセスを持つことが大事なのです。

医事部長が言うことが絶対ですか?

医事課長が言うことが正しいですか?

そんなことはないのです。

それこそ本気で間違ったことを言っている場合だってあります。

その時そこに踏み込まないのが暗黙の了解?

それこそが空気を読むことがマイナスに働く場面です。

医事課における暗黙の了解って何なのか、空気を読むってことがどういうことなのか、もう1度きちんと考えてみましょう。

ごまお

空気を読む、読まないっていうことより、どう行動するかが大事。

2 COMMENTS

Miley123

こんにちは。「同調が美しい」「同調できる人がいい人」という空気の中でここ最近ずっと違和感を感じていました。コロナの影響で仕事の形態も大きく変わり、新しい考え方、新しい挑戦が必要な状況の中で、多種多様な意見を合わせていくことが必要だと思っています。そこから新しい何かが生まれるのではないか?と。しかし職場の中の多くが意見をためらい、上司のいいなり。言われたことをただやる人間が評価されます。たくさんの考えを持っているのに表現できない。表現すると異質とみなされる。そんな環境に行き詰まっていたときにこのコラムを読み、心が軽くなりました。思考を止めなくていいんだと。お礼を言いたくてコメントを残させていただきました。ありがとうございます。

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ijikano

コメントありがとうございます。
同調が美しいという風潮は最近ますます強まってきているように感じます。
そしてその中で主張することは、とても勇気のいることです。
ですが自分らしさを押し殺して行う仕事なら自分である必要がありません。
周りとの調和をとることはもちろん大切ですが、あまりにも空気を読みすぎている人が多いなと感じ、その思いを文章にしました。
組織とは時には窮屈に感じますが、自分の主義主張はいつも忘れず持っていたいですね。
お読み頂きありがとうございました。

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