「仕事で認められたい」「上司に評価してほしい」
誰もが一度はこんな思いを抱いたことがあるのではないでしょうか。
そういう僕も同類です。
「他者から評価されたい」
正直そんな思いはつねに持っています。
これっていわゆる承認欲求ってやつですね。
世間の意識高い系の人たちの発信や自己啓発本なんかでは「承認欲求のない人こそが幸せ」「承認欲求は捨てろ」という論調が数多く見受けられます。
ですがこれって本当に正しい意見なのでしょうか?
そもそも承認欲求を持たなくするすべ、なくす方法ってあるのでしょうか?
この記事では「承認欲求を捨てることって本当にできるのか?」という点について深掘って見ていきます。
最後まで読んでもらうことで、承認欲求の正しい捉え方がきっとわかってもらえるはずです。
目次
承認欲求をなくす方法とは?捨てることって本当にできるの?
結論
承認欲求をなくす方法などありません。
捨てることは不可能です。
それをわかった上で、承認欲求は自分の行動の原動力として使いましょう。
承認欲求
承認欲求とは
承認欲求とは認められたいと思う気持ちのことです。
承認欲求は大きくわけて「自己承認欲求」と「他者承認欲求」の2つがあります。
自己承認欲求は自分で自分を認めたいと思う欲求のことで、知識の最大化やスキルアップにより自分自身を高めて満たす欲求のことです。
他者承認欲求は他人に認められたいと思う欲求のことを指します。
組織の上に立ちたいなど社会的地位や名声を得たいといった欲求や注目を浴びたいといった欲求も他者承認欲求にあたります。
そして承認欲求というと基本的にこの他者から認められたいという他者承認欲求のことをいいます。
マズローの欲求5段階説
承認欲求はマズローの欲求5段階説の階層の中にあるひとつです。
マズローの欲求5段階
第1段階 生理的欲求 (食欲・睡眠欲など本能的な欲求)
第2段階 安全欲求 (安全な暮らしがしたいという欲求)
第3段階 社会的欲求 (友人や会社から受け入れたいという欲求)
第4段階 承認欲求 (他者から認められたいという欲求)
第5段階 自己実現欲求(あるべき自分になりたいという欲求)
つまり承認欲求はこのマズローの欲求5段階説の第4段階にあたり本来誰もがいだく欲求のひとつです。
ですので「周りに認められたい」という思いは人間が生まれながらに持っている至極真っ当な感情であり欲求です。
基本的にあらゆる行動はこの承認欲求に基づいていると考えられます。
いい評価を得ようとして仕事に励むということもこれだけとると当たり前の行為で自然な行為なのです。
「誰かに認めてもらえてうれしいからもっと頑張ろう」という思いは持って当然なのです。
ほめられなくてつらい
「仕事で認められたい」「上司に評価してほしい」という思いをいだくことは自然なことです。
ですが認められない、評価されないからつらい、要はほめられないからつらいと感じることは精神上良くないことですし、そもそもバカらしい考えです。
なぜなら基本的に仕事でほめられることなんてほとんどないからです。
仕事はできて当たり前の世界です。
特に僕たちのようなクリエイティブな能力よりも正確性、迅速性といったような管理面が問われる仕事においては、基本減点主義です。
めったに加点はされません。
「よくやった、良い請求をしてくれた」なんて言われることなんてほぼ皆無です。
「ダメじゃん、査定されてるじゃん」「きちんと請求できてるの?」って思われることの方がよっぽど多いです。
だからここで承認欲求が強く出ちゃうと「全然ほめられない」「ちっとも評価されない」という思いしか持てなくなってしまいます。
承認欲求の善悪
はっきりいって承認欲求に善悪はありません。
問題はその受け止め方、そしてマインドセットのあり方です。
そうはいっても善悪論というのは存在してます。
そして「承認欲求を持つことは恥ずかしい」「承認欲求は悪」という意見は結構幅を効かせています。
「自分は承認欲求が強いのでどうすれば承認欲求をなくせるのか悩んでいます」という人はもうその思考自体が承認欲求の呪縛から逃れられていません。
そして現在はSNSを利用する人の増大も相まって、誰もが承認欲求モンスター予備軍にいるといっても過言ではありません。
仕事では自分を認めてほしい、SNSでもいっぱい「いいね」がほしい。
そうやって自分は評価されている、価値ある人間なんだと誰もが思いたいのです。
しかしアドラーはこの承認欲求こそが諸悪の根源、ゴミだと結論づけています。
そこにとらわれている限り人は幸せにはなれないのだと。
この「嫌われる勇気」でアドラーは「誰かの期待に応えるのではなくて、他者貢献をすることで幸せを感じよ」と説いています。
それは本当にそのとおりです。
そうすることが幸せへの一番の近道です。
でも結局のところ、これは理想論です。
机上の空論です。
誰もが課題の分離を行い、他者に影響されない生き方を目指すことが良いということは頭ではわかっています。
しかし実際はそうすることはとても難しい。
というか、ほぼ不可能。
なぜなのでしょう?
それは承認欲求が我々人間の本能にしっかり刷り込まれているからです。
だから承認欲求をゼロにすることなんて無理なのです。
誰しも少なからず承認欲求は持っています。
それが普通なんです。
そして問題はそこではなくてその先です。
つまり承認欲求はあると認識しつつも、それを客観視できるかどうかが重要なのです。
ここで客観視できないと「なぜ認めてくれないの?」「なぜ評価してくれないの?」「私ってかわいそう」というネガティブゴールにしかたどり着きません。
でもそこで客観視できると、今の現状を受け入れることができるようになります。
報われない自分がかわいそう、そういう現状が理不尽、という捉え方をしなくなります。
要するに承認欲求の善悪というよりかは、承認欲求ありきのマインドセットの善悪という問題なのです。
唯一の承認欲求をなくす方法
先ほど「誰しも少なからず承認欲求は持っています」と書きました。
ですので厳密には承認欲求をなくす方法なんてありません。
しかし無理やりこじつけると、たった一つだけその方法が見つかります。
それは「承認欲求をなくすためには、承認欲求を満たす」ということです。
これは至極当たり前の話で、食欲を満たすためには食べるしか解決方法がないのと同じ道理です。
承認欲求をなくすためには、承認欲求を満たすしか方法はないのです。
だからこそアドラーの主張は理想論なのです。
人間は承認欲求を求める生き物です。
承認欲求を満たされていない人が、承認欲求を捨て去るなんてことなんてできるわけがないのです。
そんなことができる人なら、そもそもこんなことで悩みません。
というわけで凡人の我々は、承認欲求をなくす方法を追い求めてはいけないのです。
そんなことをすれば、余計に自分を苦しめるだけなのです。
まとめ
アドラーさん、言ってる意味はわかりますが、承認欲求を捨てるなんてやっぱり無理なことなんです。
結局こういう結論にたどり着きます。
でもそれでいいんです。
要は捉え方、使い方の問題です。
つまり承認欲求は、自分の行動の原動力として使えばいいのです。
誰かの期待に応えるために頑張ることは他人の評価軸のレールの上にいることであって、自分のレールに乗っていない。
自分の評価軸で生きなければ幸せにはなれない。
アドラーはそう説いています。
でも仕事って最初は誰かの期待に応えようと思って、取りかかるものではないのでしょうか?
アドラーはまた、ただただ他者貢献をすることで幸せを感じればいいとも言っています。
ですがそれは言いかえると、ただの自己満ともいえます。
本当の他者貢献とは相手の立場から見て「ありがとう」と思われる行為であって、自分で満足しているだけでは実際他者の役に立っているかどうかはわかりません。
アドラー心理学はこうあるべきという人間の究極の理想形を目指しています。
ですがほとんどの人がそんな聖人君子ではなく凡人です。
ならば凡人は承認欲求は捨てられないとわかった上で、それを自分の行動のエネルギーとして使い、新たなことへチャレンジしていくことが大切です。
誰かにほめられたくて頑張る。
最初はそれでいいのです。
それがいつしか自分の夢や目標になるのであれば 。
ここまで読んであなたはどう感じましたか?
それでも承認欲求は捨てるべきって思いますか?
そう感じることはあなたの自由なので、否定はしません。
でもその生き方は、すごく苦しい生き方のように僕には感じます。
もっと言うと、自分にウソをついている生き方なんじゃないかと。
それよりかは「自分には承認欲求がある」「人から認めてもらいたい」と素直に感じている方が真っ当な気がします。
何より苦しくはないはずです。
自己肯定感を高めようとか、そんな小難しいことはどうでもいいです。
承認欲求を自分の行動の原動力として使う。
そう捉えるだけでも目の前の景色は、きっと違った見え方をするはずです。