先日の記事では承認欲求について書きました。

今回はその続きとして書いていきます。
目次
あなたのその気持ちは「承認欲求」か、それとも「承認要求」か?
結論
決して承認要求になってはいけません。
承認欲求の是非
そこでの結論としては、人間である以上承認欲求は捨てられない。
でも別にそれでいいんじゃない?っていうことでした。
結局承認欲求を全否定してしまえば、頑張るモチベーションって湧いてこないんじゃない?って僕は思っています。
アドラーは他人の期待に応えようと頑張ることは他人のレールを歩いていることであって、それは自分の人生のレールではないとバッサリ切り捨てています。
ですが、組織に属している僕たちが他人の期待に応えようと頑張ることは当然のことであり、その頑張りの結果「承認されたい」「評価されたい」と思うことはいたって普通の感情です。
「嫌われる勇気」という本は本当にすばらしい本で僕も大好きですが、書かれている内容は非常にストイックだし、理想が高いです。
ですので承認欲求はゴミクズだ、今すぐ捨てろ!と言われても僕たち凡人はおいそれと捨てることはできないのです。
結局承認欲求って白黒はっきりと善悪があるものではなくて、その場の状況、人間関係に左右されるものだと思います。
一概に「承認欲求は悪だから捨てろ」や、かたや「動機づけのためにはなくてはいけない」といった百零(ヒャクゼロ)の理論にはできないのです。
承認要求
承認されたいから頑張るというのは一見するとなんだか逆のような気がします。
頑張る動機が「承認されたいから」「認められたいから」では不純なのではないかと。
マインドが間違っているのではないかと。
しかしそれはごく普通のことです。
そういう感情を抱くことは当たり前の話です。
結局のところ、承認されたいから頑張ろうが、頑張った結果承認されようが、それは大した違いではないのです。
大事なことは承認されたい側と承認する側の関係性です。
つまり、部下はどれくらい頑張れば承認されると思っているのか?
上司は部下のどれくらいの頑張りで承認することになるのか?ってことです。
ここの均衡が保たれているのであれば、承認されたいから頑張ろうが、頑張った結果承認されようが問題ないのです。
なぜならそこにはお互いの価値観の一致が見られるからです。
部下は自分が想定した頑張り具合で上司から承認されれば、その結果に満足、納得し、より一層努力を続けることでしょう。
逆に上司は部下が自分の想定した頑張りラインを越えてくれば、その努力を認め十分に評価、承認することでしょう。
こうなっていれば、動機が先か努力が先かはどっちだっていいのです。
お互いが納得しうる状況がそこにはあります。
しかし、世の中の上司部下のほとんどがそんな関係性にはなっていないのです。
部下は自分では十分評価される結果を出していると思っている。
でも上司はそうは見ていない。
十分頑張っているとは認めていない。
そんな関係性って多いと思います。
そして部下は上司のことを「なにもわかってない上司」と思うようになります。
その思いがエスカレートすると「うちの上司はえこひいきをする」「無能」などという感情に移っていきます。
「こんなに頑張っているのになぜ認めてくれないの?」そう感じている医療事務員の人って全国で10万人くらいはいるはずです。
誰だって1度はそんな感情を持ったことがあるのではないでしょうか。
かつて僕もそう思っていました。
頑張っても頑張っても上司の評価は低いまま。
こんなとき人は2つのパターンにわかれます。
1つは「ちゃんと評価しろ」「認めろ」と過度な承認欲求に至る人。
もう1つは諦めです。
結論から言えばこの2パターンは両方間違った反応です。
正解はメタ認知を働かせた上で自分と向き合うことです。
なぜ評価が低いのかを客観視した上で、自分の行動を振り返ることです。
そして「自分はやるべきことを精一杯やった。
あとこれをどう評価しようがそれは自分の課題ではないし、自分ではどうにもできないこと」と結論づけられるかどうかです。
でもそんなできた人はめったにいないわけで、多くの人は1つ目のパターンに向かうのです。
つまり「過度な承認欲求=承認要求」です。
でもこの承認要求は余計にドツボにはまります。
ただただ自分が苦しくなるだけ、それが承認要求なのです。
かつての僕は承認要求には至りませんでした。
なぜなら僕は諦めたからです。
上司に期待することを諦めました。
だから承認欲求モンスターにはならなくて済みましたが、同時に仕事のモチベーションも落ちました。
でもモチベが落ちるということは自分では気づかずとも、結局は承認欲求モンスターだったのです。
上司に期待することを諦めるということは、そこには十分な承認欲求が存在するのです。
やっぱり認めてもらいたかったのです。
でないと諦めるという感情は出て来ない。
自覚はしていませんでしたが、僕も承認要求をしていたのでしょう。
まとめ
承認欲求と承認要求。
言葉の響きは似ていますが意味していることには大きな開きがあります。
承認欲求は別に捨てる必要はなく、それを働くモチベーションの源泉とすることは正しい使い方です。
ただ行きすぎてはいけないのです。
過度の承認欲求は自分を追い込むだけです。
そしてその状態で一番こわいのは、自分と向き合えていないということです。
承認要求している自分の姿を自分で認識できていない。
あたかもその要求は至極妥当なものであると信じて疑わないその人を承認してくれる人、評価してくれる人などいないのです。
現実はむしろその逆。
そのことに早く気づく必要があります。
なぜそんなに承認してほしいのか、認めてほしいのか。その根本原因を突き止めないといけません。
結局その原因とは自己肯定感の低さにあるのではないでしょうか。
自分ではその穴を埋められないから、承認されることによって埋めていまいたい。
そんな気持ちがどこかにあるのではないでしょうか?
だったら承認要求している暇があるなら、その時間を自己肯定感を上げるために使った方がよっぽど有意義です。
そうすればあなたの承認欲求は適度な効果的な位置でとどまるのではないでしょうか。
