3日前にメディアバイアスに騙さるな!という記事を書きました。
それからの経過を見ていても新たな新事実は出てきてません。
いやいや続報がいろいろ出ているじゃないかという指摘もあるでしょうが、ほとんどがそれこそがメディアバイアスな記事です。
「20人透析せず、死亡」や「指針逸脱か」、「倫理委員会開かず」は新聞見出しとしてはセンセーショナルで興味を引くものでしょう。しかし記事に中身はありません。
前回も同様のことを書きましたが報道が非常に偏っています。ここぞとばかりに総叩きという風潮です。
すごい印象操作のように感じられてしまいます。私達が本当に知りたいのは事実なのです。
どういう過程を経てその結果となっているのかを示してくれなければ何も判断出来ないのです。
当ブログは常々言っているのですがエビデンスベースドが大原則です。
だとするのならば裏取りしていない記事や納得出来うるソースがない記事などはあっても無意味なのです。
ここでひとつ断っておきますが福生病院を弁護するつもりもありません。
というか現状の情報だけで語れるだけの知識、素養は私にはありません。
ただ今回言っておきたいことはメディアに誘導されてはいけないということです。
それはあくまで材料なのです。
考えるのはあくまで自分だということを忘れてはならないという主旨で以下綴っていきます。
目次
透析中止が悪
医療関係者でない一般の人にとっては透析とはなじみのないものです。
どういう病態の人がなってどれぐらいの頻度で実施してどれぐらい時間がかかってなんてことはほとんど知らないと思います。
ましてそのつらさ、しんどさなど当人しか分からないことです。
今回の一連の報道を見ている一般の人達からすれば、透析は一生続けるもの、やめてはいけないものとの印象を持ったと思います。
しかし倫理的な観点からすれば透析を行わない選択というのは医師から患者へ示されて当然なのです。
患者本人が透析を行わないことのメリット、デメリットを十分理解して自分の価値観と照らし合わせた上での行わない判断であるのならば尊重すべきなのです。
もちろんその後の気持ちの変化や家族との話し合いでの柔軟な対応が必要なことは言うまでもありません。
20人透析せずの真意
これは全く表面上の数を追っているだけで意味がないです。
ひとりひとりの経過をたどって結局なぜ中止に至ったかを検証していればまだ記事として出せるとは思います。
それぞれが医学的にみてどのような状態にあったのか、患者の意思を十分尊重した上での結果なのか、またそこまでのプロセスがきちんとしていたのかどうか。
20人いれば20通りの道筋がある筈なのにそれをひとくくりにしているだけの記事に何の意味があるのでしょうか。
論点がずれている
一番の問題とすべき所がおかしいです。
というかそもそもメディアは何を一番問題としているのかがよく分かりません。
前回も書きましたが確証バイアスなのです。はなから福生病院悪し論なのです。
だから病院が不利になりそうなことが見つかれば次々と記事にしていく、ただそれだけです。
そこには明確な医療に対する問題提起とか人間の尊厳についての提言とかはない訳です。
ただ発行部数が増えればいいとか視聴率が稼げればいいとしか思ってないようなスタンスにしか見えません。
本来一番の問題点となるべき所はアドバンス・ケア・プランニング(人生会議)の問題です。
十分な選択肢の提示と納得のいく話し合いが持たれていたのかどうか、この一点に尽きる訳です。
だから透析の中止を提示しそれを選択して死に至ったことが問題ではないのです。
まとめ
現在社会はまさに私達のメディアリテラシーが問われています。
すなわち、情報の真偽を選別し適切な判断を下せる能力です。
医療業界で何か起こるとメディアはここぞとばかりに医療機関や関係者を責めたてます。
あたかもそれが正義であるかのように錯覚をして。
そしてそれが今回の毎日新聞のような社会的地位が高いメディアであれば記事内容をそのまま信じてしまう人も少なくないのです。
これは非常に怖いことです。大衆を誘導することによって一つの医療機関など社会的制裁という名のもとにいとも簡単に葬られてしまう今の世の中なのです。
たとえ大きな社会的に地位が高い新聞社やテレビ局であってもそこにスポンサーが存在している限り中立な公明正大な報道がなされることなどあり得ません。
だとするならば自分のメディアリテラシーを高めていくほかないのです。
人生とは一体何なのか。
長生きが善なのか。自分の死と向き合って治療をしないとした選択は駄目なのか。
それを提示した病院は悪なのか。
物事の中身を語らず表面的な所で非難ばかりのメディアにはもううんざりです。